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ヘレン・ケラー伝説

「1887年3月3日のアン・サリバンの到着は、私にとって、けっしてたんに私の誕生日を意味するだけではありません。それは私の魂の誕生日だったのです」(ヘレン・ケラー
<参照>
ヘレンケラー第2章(1)


1887年(明治20年)アメリカのアラバマ州で2人の女性が出会い、奇跡がもたらされた。
2人の物語は「奇跡の人」として後々まで語り継がれている。
(「奇跡の人」は戯曲家、ギブスンの創作が多分に含まれている。有名な井戸でヘレンが叫ぶシーンもそうである*1


2人の物語と言っても、日本では「奇跡の人ヘレン・ケラー」を知る人は多いが
家庭教師のアン・サリバンを知る人は少ない

サリバン先生は1887年、20歳の頃からヘレンに就き
1937年70歳の生涯を終えるまで、ヘレンの目となり耳となって彼女に尽くした


ギブソンの書いた戯曲(後に映画化された)「奇跡の人」(原題:The Miracle Worker)は三重苦を乗り越えたとされるヘレン・ケラーを指しているのではなく
無学であったヘレンを立派に育てたアン・サリバンを指している*2
アン・サリバンが派遣元であるパーキンス盲学校のマイケル・アナグノス校長に賞賛された時も
「私は子供を育てるにあたって当たり前の事をしているだけです」という事を答えている。

当時は障害者に対し、現在程理解がなく
障害者は知性を持ち合わせないという偏見もあったようで
そのせいかサリバン女史の成功、ヘレンが健常者と同じように読み書き会話を覚えた事が
奇跡と映ったのかもしれない


奇跡の人「ヘレン・ケラー

 ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)
1880年6月27日アメリカ南部、アラバマ州の裕福な家庭に産まれる。
利発的な少女*3だったが生後19ヶ月の時、謎の熱病が元で視覚と聴覚を失う。
その後長らくヘレンには暗黒の世界の住人となる
ただ、普通の子と同じように成長し、時にはいたずらもしていたようで
鍵の意味を覚えた時は、母親を部屋に閉じ込めておもしろがっていた
周りの人を面白がらせるのが得意で
何か行動をした後に、(父親等の)顔に手をあて笑ってるかどうか確かめていたらしい


そんな彼女のコミュニケーションは主に身振り手振りで行われていた
5歳の頃にはその言葉(種類)が50種類にも及んだという
ただ、やはり身振りだけでは意思を伝えることが難しく
それで良くかんしゃくを起こしていたらしい
(その部分が拡大されて「奇跡の人」にある野性的なヘレンが描かれたのだと思う)


両親はヘレンの視力回復を諦めず、方々手を尽くしたが願いは叶えられなかった
そんな折、ローラ・ブリッジマン*4の噂を聞く
またバルチモアの眼科医から、アレクサンダー・ベル*5を紹介される。
ベルはヘレンの身振りを良く理解したという
ベルの勧めでパーキンス盲学校のマイケル・アナグノス校長に手紙を書き
派遣されて来たのがアン・サリバンである。
その時ヘレン7歳、サリバン若干20歳であった


ヘレンは賢く、サリバン先生の書いた指文字を真似て
すぐに沢山の単語を覚えて行ったようです
ただ、まだ言葉が物を表すと考えず、ゲームとして先生の書く指文字を真似ていただけのようでした
そしてあの井戸のシーンです
「誰かが井戸水を汲んでいた。先生は、私の片手をとり水の噴出口の下に置いた。冷たい水がほとばしり、手に流れ落ちる。その間に、先生は私のもう片方の手に、最初はゆっくりと、それからすばやくw-a-t-e-rと綴りを書いた。(中略)この時はじめて、w-a-t-e-rが、私の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいもののことだとわかったのだ。この「生きていることば」のおかげで、私の魂は目覚め、光と希望と喜びを手にし、とうとう牢獄から開放されたのだ!」
(引用:「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 34頁より)
これがサリバン先生がケラー家に来て1ヶ月後、1887年4月はじめのことである



下記サイトにヘレンとサリバンの写真が多数展示されています。
ヘレンケラー伝記 Helen Keller Biography 障害者福祉 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼行博研究室


<参考>
Amazon:奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝
(原書はヘレンがラドクリフ大学−ハーバード大学の女子部−在学中に執筆された「The Story of My Life」)


The Miracle Worker「アン・サリバン」

アン・サリバン(Anne Sullivan: 本名 Anne Mansfield Sullivan Macy)通称アニー
1867年アメリカ北部の生まれ
小さい頃に母親と弟を亡くし、自身も目を煩い盲目となるが
パーキンス盲学校に入学後、視力を回復している。

ヘレンとは対照的に貧しい家の出だったが挫ける事がなく、信念を貫くといった性格は似た所があるかもしれない
救貧院に入っていたサリバンは無学であったが
1886年パーキンス盲学校を主席で卒業
マイケル・アナグノス校長の進言でヘレンの家庭教師となる


半年の勉強期間があったとしても
サリバンは教える事は初めてであり不安もあったはずである
しかし、これほどまでに成功を収めたのは、自身の盲目の経験
さらにパーキンス盲学校で最初の友達であった、ローラ・ブリッジマン(当時50歳)との触れ合いが生かされたのだと思う


ちなみにヘレンは過酷な練習後、相手の(顔に手をあてて)唇を読み会話をする事ができるが
発声方法だけはサリバンに教育の知識がなく、ヘレンの強い要望により専門の先生を紹介している。



Amazon:ヘレン・ケラーはどう教育されたか―サリバン先生の記録


<以下のサイトを参考にしました>

アン・サリヴァン - Wikipedia

小原二三夫の部屋

http://www.akashi.co.jp/menue/rensai/syougai_7.htm

http://www001.upp.so-net.ne.jp/wakan/Biography/HelenKeller.html

*1: この物語を戯曲化したウィリアム・ギブソンは、1950年代の半ばに図書館でアニー・サリヴァンの手紙に関する本を見つけ、その内容を元に「奇跡の人」の創作を始めた。皿やスプーンが飛び交うシーンなど、印象に残る一つ一つのシーンはギブソンによって書かれたもの。
<参考>http://eee.eplus.co.jp/s/miracle/

*2:ヘレンの良き理解者、マーク・トウェイン(作家)がヘレンを賞賛し「奇跡の人」と呼んだとされているが本当かどうか不明
マーク・トウェイン ヘレン 賞賛 奇跡の人 - Google 検索

*3:ほとんど走り回り、いくつかの単語を覚えていたらしい。waterという意味で「ウォー」と叫んでいたとか

*4:ヘレンと同じく幼い頃に視力と聴力を失うが、パーキンス盲学校のハウ博士の下で指文字を勉強し盲聾者にも教育が可能であると実証した。彼女は生涯パーキンス盲学校に留まり教育の手伝い等をした

*5:電話の発明で有名だが、聾教育にも熱心で、自身の妻と母も難聴である。ちなみにベルの誕生日も3月3日