sidewalkcafe blog

日々是好日

幸せについて本気出して考えてみたり


「幸せですか?」

唐突に聞かれたら何と答えるだろう?

「幸せですよ」
自分はこう答える、こう答えるようにしている。

だけど大概の人に一笑に伏される、当たり前の事だとでも言いたそうに
その当たり前の事を忘れ「自分は不幸だ」なんて言う人も居る訳なのだが・・・

勿論、生きているだけで不幸だなんて人も大勢いるだろう
生きる事は苦しみの連続である、との言葉を聞いた

http://www.dx.sakura.ne.jp/~kameno/someya/howa13.html
上記サイトより抜粋
「生は苦しみである。老いは苦しみである。病は苦しみである。
 死は苦しみである。愛する人と別れるのは苦しみである。怨み憎む者と出会うのは苦しみである。求めるものを得られないのは苦しみである。
 つまり、すべてが苦しみである」

すごい言葉だ
この世の全ては苦しみなんだって^^;
だがこの言葉の真意は「苦しみは不幸ではない」
「苦しみを得る者は幸いである、苦しみは貴方の人生への眼を開かせてくれた」という事だ

病気をした時、健康な頃を幸せと思う事もあるけど
健康な時はなかなかそういった気持にはなれない


人は幸せに対して貪欲だ
常に幸せを求めようとする
それは何かの形であったり、何かしらの行為であったり
だけどその幸せは長続きしない
たとえ同じ幸せの状態が続いても、人は悲しいかな「慣れ」て「飽き」てしまう
より強い「幸福感」を求める
既に得たとしても、何もない事が幸せと感じる事もなく・・・

幸せの形というものも人それぞれで
日々の些細な事で幸せを感じる人もいれば、大きな満足感が得られないと幸せと感じない人もいるだろう

自分は不幸でも、人が幸せになってくれれば良い
そういった人もいるかもしれない
でも人の幸福を自分の事の様に置き換えることができるなら
結局は自分の幸福感の為にやってるようなもんじゃないだろうか?
そうだとしても、その行為を「偽善」だとか言う気はさらさら無い
まぁその判断は周りがするものであって、本人をして「自分は善行をしています」なんて言うのは
押し付けがましいというものだ
「恩を着せる」と言える

幸せの定義から少し外れるけど
例えば一人の詐欺師、偽善者がいたとする
とある老婆を騙し、身の回りの世話をして挙句は大金をせしめようと目論む
遺産が転がり込んでくるような事になれば彼は大金持ちになれる
その日を夢見て毎日老婆の家に足しげく通い、絶大な信頼を得るに至る
だが、彼は不幸にも計画途中で事故に遭い死んでしまう

さて、この詐欺師
結局は老婆に尽くすだけ尽くして亡くなってしまう訳だが
彼は偽善者だったろうか?
彼自身、そして彼を知る者は「偽善者」と言い切るだろう
だけど老婆からすれば、彼は希に見る「善人」と見えたのではないか

逆に善かれと思ってした事が、相手には悪く映る事もある
結局、善人悪人偽善者を判断するのは当人では無く他人であるということだ

そして本人が偽善行為をしてたとしても、その行為が善くみえれば善行も同じ
だから自分は良き偽善者でありたいと思っている

自分の偽善行為で誰かが幸せを感じることができたら
誰かを幸せにする事の手伝いができたら、それはまた自分の幸せであろう。
偽善者冥利に尽きるとでも言っておくか

幸せの判断は十人十色で、他人には計れない
人から見ればどう見ても不幸としか見えなくても、当人には幸せな事だってある
もちろん、目先の幸せを追って、後で不幸を背負うなんて事が判り切ってるなら注意しなければならないが

言葉には「言霊」というものがある
「不幸だ不幸だ」と常々言葉にしている人は不幸になってしまう
また小さな幸せも見逃してしまいがちなんだろう

自分が「幸せです」と言い切るのも
日々の幸せを忘れずに、また幸せと言うことで自覚をもち
新たな幸せを呼び込むきっかけを創るためである
幸せになるには簡単な事だった、「幸せです」と一言いえばいいだけだから

今日からあなたも「幸せ」をはじめてみませんか?

「ナニ、悩みがある? あなたはなんて幸せなんでしょう(略」